ロゴスの使徒(つかい)

出身高校は、いまはもう統廃合でないのですけども。

公立ながらも語学教育に力を入れ、制服も校則もない自由な校風で、すべて生徒の自主性にまかされた、とてもいい学校でした。

英語の授業は普通の高校の2倍。ほかに第二外国語として、私の時代はフランス語かスペイン語が必須でした(その後中国語、ドイツ語が加わったとか)。

母語話者の先生も頻繁に加わり、ディベートや自分の意見をまとめるライティング、シャドウイング、英文タイプなど「語学のスペシャリストを育てる」という目的のもと、公立高校としてはかなり攻めたカリキュラムでした。シャドウイング(流れてくる音声を後から追いかけるように発話して舌を鍛える発音練習)なんてやっている公立校、そうそうなかったと思います。

いまの私はそうとうの部分、この学校で培われた基礎力で生きています。

入試のテクニック的なことよりも、語学を扱う、その先でなにをどうするのか? ということを毎日毎日みっちり仕込まれました。

子どもの進路を考えるとき、インターナショナルスクールのようなところも(経済的に可能なら)いいと思うのだけど、根本は日本人のメンタリティでありながら、外に目が向いた教育をする、というスタンスの学校がいいと思っています。根っこが曖昧な人生はやりにくいのではないかと思うので。

私の高校はまさにそのような場でした。学ぶということについて先生方はものすごく厳しかったけれど、ぐりんぐりんのパーマをかけようが茶髪にしようが、ボディコンを着ようが(時代ですね)、そんなことはまったくなにもひと言も咎められませんでした。一度すごいヘアスタイルにしたことがあるのですが、担任の先生、「あら素敵ね」で終わりです。で、試験の採点は超シビアで、できないと実に冷たい。いま思えば先生方はいつも生徒に真剣勝負で、妥協や甘えは許さないけれど大人として扱ってくださって、そしてかっこよかった。

言語、そして他国の文化を学ぶことの楽しさや喜びを知ったのはこのころのこと。10年ほど続けていたダンスにものめり込んでいて、映画「コーラスライン」に影響されまくり、アメリカにわたってブロードウェイでミュージカル女優になりたいという野望を抱いていました。

「ひたすらに築こう 平和と交易(まじわり)」と続いて、校歌の最後の締めくくりは「世界に羽ばたくロゴスの使徒(つかい)」

ロゴスは言語を司るギリシャ神話の神様ですね。

しかし生来の半端気質がたたり、英語以外の言語はじつにお粗末な末路を辿ることに。

大学で専攻したインドネシア語など、専攻したと名乗るのもはばかられるような状態。2年時に行う語劇の台詞を覚えるためににわかに猛勉強したのが一番がんばったときという、指導教官の先生方に平謝りするしかない感じ(しかも語劇は主役を演じたんですよ。なんという強心臓←同期生のみんな超ハラハラしたと思う)。

その後、インドネシア語と親戚関係と言われるマレー語や、成り行きで居住の可能性があったタイ語とフランス語、映画のためにどうしても学びたくなったヒンディー語、古典舞踊のために始めたタミル語と、複数言語半端道を突き進んできました。

ただ肝心のインドでは、ローカルなインド語が必要な場面もなくはないけれど、私が関わる仕事の話はほぼ英語で済むので、旅行者のカタコト会話以上のインド語がまったく上達しないまま。形容詞や動詞の変化はほとんどできないし、時制の使い分けなんて壊滅的。連立した高度な文章など出てきたらもう絶対分からない。「ミィね、トゥデイね」の域を出ないまま、はや20年。

インドネシア語にはインド諸語の根っこでもあるサンスクリット由来の名詞や動詞が多数入っていたり、イスラーム教的な単語はアラビア語由来でインドもインドネシアもまったく同じように使われたりします。だからインド諸語の音を聞いていると「あっ、わかる!」と思うことがしばしばあります。それで、分かる単語と単語をつなげて想像力で理解しようとするのですが、いかんせん、文法がダメなので全体像が見えなかったり。

でもねえ。映画を観ていると、ああ、この台詞を、原語のまま、味わうことができたらなあ!

という思いがふつふつと湧いてくるんですよ。

そしてあわよくばそれが「どうせあいつ英語しかわからないから」と、かなり諦めムード漂うインドのお仕事相手の心に多少の風穴をあけることができたら。そりゃね、ローカル言語を正確に使えるとなったら相手の態度、かなり変わります。

異なるカルチャー同士をつなぐ。相互理解を深め、認め合い、受け入れる社会をつくり、世界を平和にする一端を担う。

ロゴスの使徒に、私はなりたいんですよ。

私の本棚には、本日の扉写真の5倍くらいの語学書や辞書があふれていて、それは全部、挫折の歴史。積ん読状態でございます。

はい。今年はヒンディー語、がんばります。