スピリチュアリズムなるもの

インドの猥雑と混沌のはざまに、精神の高みを目指す人がいます。

実際、ここはまぎれもなく聖地だと思える場所がインドにはあります。第三の眼(!)を持ってるんじゃないかと思うような人もいます。時間の流れが違うとか、空気が違うとか、神聖さを感じることもあります。スピリチュアリズムの存在を私は全面的に信じています。ここは自分の聖域だと思う場所には、邪念が入るのでどんなに近しい人間も伴わずひとりでひっそり臨みます。

そんなインドですから、怪しさと神秘がなにやらおかしな具合に混ざって利用されていることがままあります。

大地の息遣いも、宇宙の法則も、魂の救済も、気づきをありがとうも、感謝感激雨あられも、ご先祖様の怒りも、因果応報も、子宮が叫んでるも、自分らしさあなたらしさも、ありのままの自分も、引き寄せも、鏡の法則も、浄化も、ぜえぜえはあはあ。

ぜんぶ、わかりますよ! わかるんですよ!

しかーし!

私、じんましんが出てしまうの!

なににって、スピリチュアリズムを、特別な自分を形作るために利用している人たちに。

私に気づいて。私を認めて。すごいねといって。羨ましいといって。そんなことのために特別な装置を必要とし、インドを選んでしまう人たちに。

幼児期〜思春期にそのような欲求があるのはごく自然なことですが、大人になってもそれを持ち続けているのは、健全な挫折と達成を乗り越えてこなかった、ただのハンパ者じゃあないでしょうか。

生きていくこと、すなわち、ごはん食べたらうんこ出る、というようなシンプルな事象に、なぜそんなに意味をつけたがるの? 魂の便秘ですか?

登る朝日は美しい、魂が洗われるような気分にもなる、でも、路上で生活している人たちにしてみれば「そんなの毎日見てる普通のこと」。インド映画”Chalo Dilli(2011)”にそんなシーンがありました。それだよそれ!

よそでやるのはお好きにどうぞですが、ごくたまに、他人を巻き込もうとする「スピリチュアル」な人がいます。どうか、魂の便秘の解消、すなわち自分の優位を確認したいがためだけに、人をちり紙代わりにしてお尻を拭こうとしないでいただきたい。便秘を治すのは、健全な食と適度な毒と睡眠、なにが問題なのかを考えられる大人の思考です。

大地が、地球が、魂が、と語れるのは、世俗の荒波をくぐり抜け、立ち向かい、他人からのお手軽な承認ではなく自身の孤独な闘いによって確固たる自信を勝ち取った人だけです。

足元の泥を払うにも誰かの助けがいるような、自らの未熟な精神を認めず、解決すべき根本から目をそらし、ただ耳に心地よい言葉に逃げたり都合のよい解釈で問題を捻じ曲げるような人が、やれ氣がどうの、やれお告げがどうのと、うわべだけキラキラしてみせたところで、そんなものはなにかのきっかけで一気に吹っ飛びます。

怒れるカーリー女神像

さて。

身近に本物のヒーラー(?)なのか能力者(?)なのか、よくわからない念を持ってる人がいますが、彼女は筋金入りのスピリチュアル研究者及び実践者でありながら、滅多にスピ系ワードを発しません。

手のひらから金粉くらい出せそうですし、求めればなんか出してくるでしょうけど、滅多に出しません。そういうものより先にまずはゴテゴテの心理学の理論を出してくると思われます。

本物ってそういうもの。

あ、そうそう、財布を落としたときに動揺して泣きついたら、9割くらい在り処を当ててくれました。気軽にそんなお願いしていいのかわからないけどあれは助かった! 機嫌が悪いと周囲の電子機器が壊れるので、ときどきお供えすることにしています(笑)

本物を知れ。そして恥を知れ。

私自身、いつも肝に銘じていることです。というわけで、エセ・スピリチュアルな方は、どうか私に近寄らないで。触るな危険。