未知との遭遇、なう

澄んだ瞳でにっこり微笑むポートレート。私のどストライクの好みとは、かなり違う。

私が好きなのは、撮り手の粘りや計算とは裏腹に、神様にしか成し得ない、その時々の偶然の妙が表れたような、仕組まれていない瞬間を切り取ったような、そんな写真で、緻密に計算され作り込まれた写真とは正反対にある。

20代の数年間、東南アジアからインドを旅して、子どもの写真を撮り続けていた時期があった。

貧しくても心豊かに生きている人々。

そんなチープな紋切り型でいくらでも表現できそうな、輝く笑顔をたくさん撮った。

そしてそのたびに「汚れた大人でゴメンなさい」といういたたまれない気持ちになった。

先進国の都会で何不自由なく育ち、だらだらと大学に通い、講義をサボってはバイトに精を出して旅をする。就職したかと思えば会社はすぐ辞めて、食いつなぎのバイトをしては、やっぱりだらだらと目的の見えない旅をする。

そんな自分に対して、あまりにも曇りのなさすぎる瞳が、一眼レフカメラ以上に、重かった。

それでも、田舎で子どもにレンズを向ければ、珍しい外国人の闖入を面白がって、どこをどうやっても極上の表情が撮れてしまう。

それはどこか背徳の味がする行為で、なかなかやめられなかった。

このころ撮りためた子どもの写真は、タイ発刊の日本語誌に寄稿したりもした。

From Thailand “pomelo” November-December 2003号

写真の技術はまったく向上しないままに、マウントだけは仕上げた、たくさんのどうにもならないポジフィルムを箱にしまい込んだのは、いつだったか。

三井さんの撮影ツアー

先日、『渋イケメンの国 ~無駄にかっこいい男たち~(雷鳥社刊)』などで知られる著名な写真家の三井昌志さん(サイトはこちら)が撮影指導をするツアーに、同行スタッフとして参加させていただいた。

三井さんの写真は、私が一番、背徳のヤバイ味(笑)を思い出して怯んでしまうスタイル。

昨年、初対面でお会いしたときのご本人も自然体で、場末の飲み屋にそぐわない爽やかなナイスガイ(死語?)で、ますます恐れ入ってしまった。

数ヶ月後、同行の話をいただいたとき、「儲からないが、やることに意義がある!」と宣言する主催旅行会社の腐れ縁の社長氏につられて、慎重派(ほんとです)の私にしては珍しく、ふたつ返事でお受けすることにした。

ツアーは現地集合で、すでに数ヶ月をインドで過ごしている三井さんとの合流場所は、ヒンドゥー教最大の聖地バナーラス。当日、バイクで350キロ走り現地入りするという三井さんは、道中、翌日以降のツアーの撮影場所のロケハンまでしてこられて、そのカッコよさにシビれた。

ぶっつけ本番、農村へGO!

同行スタッフの私も、バナーラス近郊ということだけは聞いていたが、撮影対象として、どこの村に行くのか、知らなかった。前日に三井さんがバイクで走りながらよさそうだと選んだ場所に、いきなりツアー参加者の皆さんをお連れするのである。

インドの田舎、そして農村の雰囲気というのは、私も多少は知っている。どこの田舎もそうなように、とても閉鎖的で、外部の人間に対して警戒心が強い。

だからカメラを持った外国人が何人も突然やってくることで村中が騒然となるのは容易に想像できた。一歩間違えれば不穏な空気が進行するのではないかという危惧も心のどこかにあった(かつて目の前で目撃したこともある)。

つとめて人畜無害なフレンドリーさを演出しつつ、ちりぢりになった参加者の方々の行く先と、なにかありそうな際の頼みの綱の現地ガイドの位置を追う。

われながら滑稽だなと思いつつも、この仕事を受けたからには絶対に安全第一。かつ全員に可能な限りのびのび楽しんでいただきたく、道端に座り込んでザクロなんぞかじりながら、密かに手に汗握っていた。

訪れた村や町は2日間で4か所。

レンガ造りに土壁の家、英語が通じない、携帯は数人にひとりがガラケーを所持、ときどき真っ裸の子どもがうろうろしている、という農村。

ほんの数キロ先に、コンクリの家、子どもたちは全員パリッとした服を着て英語を話し、スマホでセルフィーを一緒に撮ろうという人がたくさんいる小さな町。

参加者の方もおっしゃっていたが、目と鼻の先の狭いエリアでそれだけの格差がありありとうかがえることが、分かってはいたが、やはりショックだった。

何をしにきたのか

最後に訪れたイスラーム教徒の多い町では、少々広範囲なので全員の行く先を確認できず、たまたま同じ方向に歩いていた参加者の方と細い路地裏に入っていった。

子どもたちは無邪気にこちらを見ている。しかし少し年かさの少年たちを始め、表にいる若い男たちの鋭い視線がこちらを凝視していた。

「アッサラーム・アライコム」

イスラームの挨拶をすると多少は表情が緩むが、笑顔は出ない。

中身はともかく見た目の人畜無害さに自信がある私としては、少々焦る。

やはり、ごついカメラを持った外国人は相当目立つ。自分のささやかなミラーレス一眼はそっとしまって、iPhoneだけを握りしめた。

奪われたり壊されたりが怖いわけではない。ここの人たちはそんなことは絶対にしない。

ただカメラの台数に比例して警戒心の壁も厚くなる。なんとかしてそれを崩そう、それがミッションだと、勝手に決めた。

「なにをしている? 写真を撮ってどうする?」

詰問してくる青年がついに現れた。

こういうときに限って、普段あまりわからないヒンディー語(おまけにちょっと訛っている)が聞き取れてしまう。

「インドの貧しい暮らしを撮ってそれを広めたいのか?」

ハッとした。

その町の暮らし向きは極貧というわけではない。決して贅沢で豊かではないが、機織りを生業にそれなりの生活水準を保っているように見えた。

それでもなお、当たり前といえば当たり前だが、よそ者にその生活を写されたくないと思う人はいる。

「私たちはただの旅行者で、この町や人がすき、だから写真に撮りたい」

そんなことを過剰な演技でにこにこして伝えたら、しぶしぶという感じで納得はしてもらえたようだった。

その後、数軒の家に入れてもらうことができ、機織りの様子などを見せてもらった。

長老的な風貌の爺様に「ごはんを食べていきなさい」とも言ってもらえた。

一般家庭で食事をふるまわれるのは、国や宗教問わず、ある一定の信頼を得られた証だ。ひとまず、その場のミッションは全うしたと思った。

食事には興味津々で、普段ならホイホイ乗る。ただ過去の経験からいうと、こういう場合、鶏をシメるところからやりかねない。仕事中であり時間もないので丁重に辞退。

別の参加者の方からは、英語が話せるお役人的な立場の人が登場して、同じように何の目的でやってきたのかと質問されたと聞いた。

近代化の波

ちょっとここで話が飛ぶ。

アジャンター石窟寺院群という有名なユネスコの世界遺産がある。ここを最初に訪れたのは2000年のこと。

広範囲にまたがる石窟寺院群だが、旅行者が通過できる入り口は通常は一か所。ごちゃごちゃと露店が立ち並ぶなかを、商売っ気満々の物売りとの攻防を繰り広げながらやっと入り口にたどり着いた。絵に描いたようなインドのカオスだった。

その後、エアインディアの機内誌で「政府主導のアジャンター石窟寺院群の観光整備計画」を知った。2005年に再訪した際には、ごちゃごちゃしていた露店はすべて撤廃、きれいなユニット店舗に変わり、移動は電気自動車、物売りも一切いないという大変貌を遂げていた。

先日11年ぶりに再訪したバナーラスでは、旧市街のハイライト、黄金寺院周辺にこちらも政府主導の整備計画があると小耳に挟んだ。数百年変わらないという参道などの狭い古い道を広げ、近代的に整備しようという計画らしい。

その流れで、このエリアにある、古い世代の旅行者組の溜まり場だった元トリムルティ・ゲストハウスの建物も取り壊されたと聞いた。

ちょっとだけ様子を見に行ったのだけど、かねて聞いていた通り、寺院につながる参道は途中から外国人の立ち入り禁止になっており、周辺を確認することはできなかった。

あちらとこちら、その境

私が親しくしているインド人の友人は、中流の上という層が多い。都会で生まれ育ち、大学卒、企業勤め、家は近代的な団地やマンション住まい。インターネットを駆使し、行ったことはなくても外国のことをよく知っている。教育レベルや価値観が近く、英語で不自由なく会話ができるので、普通に友人として接することができる。

彼らは買い物も外食もエアコンの効いた大型のショッピングモールに行く。間違っても、ごちゃごちゃと露店が立ち並ぶ昔ながらの商店街には行かないし、そのへんの屋台で買い食いはしない。そして普段着はインド服ではなく洋装を好む。

すっきりこぎれいに整備されたアジャンター石窟寺院の入り口は、どこかのテーマパークのようだった。

バナーラスの路地裏も、整備計画への反対運動もあるようだが、もしかしたら数年後には様変わりしているかもしれない。

こういう世界だけに接していると、インドは着実に近代化の道を歩んでいると思う。

実際、デリーやムンバイやチェンナイのショッピングモールで食事や買い物などしていたら、インドなのか日本なのかタイやマレーシアなのか一瞬わからなくなるときもある。

失われていく「昔ながらのよさ」について、当事者ではない私がいえることは、ない。誰だって人間らしく快適に暮らす権利がある。

あなたを忘れていない

日本人としての自分がとても便利だなと思うのは、これだけ都市や農村、階級による格差があるインドで、その気さえあれば、どこの世界にも好きなように入っていけることだ。

違和感なく隠しごともなく接することができるインド人の友人たちと過ごす世界とは別に、農村にも、片田舎の町にも「こんにちは」とぐいぐい分け入っていくことができる。

レンガ造りの質素な家に当たる光が綺麗だなとか、曇りのない瞳で微笑んでくれる子どもがかわいいなとか、他愛なく感じることができる。

そこに暮らす張本人たちが、自分たちの住まいや佇まいの美しさにまったく気づいていないというところも、大きな「萌え」ポイントといえる。

けれどこれらは、ともすれば都会の人間には存在しないことになっている世界でもある。逆もまたしかり。遠すぎて、違いすぎてお互いに接点がない。

都会の中上流のインド人のなかには、田舎から出てきた使用人を同じ人間扱いしない人や、道端の物乞いを空気のようにスルーする人もいる。

カーストが云々という以前に、自分たちが生きる世界の外は最初から存在しない、そんなふうに振舞っている人は、本当に多い。

貧富の差や、身分差別といった問題を毎日考えるのはとてもしんどいことで、実は私もどちらかといえばそちらのグループの端っこに入る。むやみやたらと疲れるから、大半の時間は、できれば自分が心地よくいられる世界で過ごしたい。

訪れた村や町の人々は、そのことを骨身に沁みて知っていて、だからこそ、外からの侵入者に警戒心を持つ。

同時に、あえて外に出て荒波に揉まれるよりは、狭い世界のお山の大将という立ち位置を確立することのほうに重きを置く。

教育レベル、インフラ整備、雇用の確保。

そんなものが都市から離れれば離れるほど手薄になっていくのが、現在のインドといって間違いない。

「亡命チベット人は政府からの手厚い保護があり欧米からの関心も高いのに、ラダックとラダック人は後回しにされている」

ずいぶん前に、ごく親しいラダック人の友人がポロリとこぼした本音だ。

インド在住の亡命チベット人やその子孫と、インド最北部の険しい山岳地帯に暮らすラダック人は見た目も文化も広義にチベット系で、一見、似ているが、友人がいうように境遇には大きな差があった。

自分たちは忘れられている。

そう感じるときの人の心の痛み、悲しみ、諦めを、私は決して忘れたくない。

澄んだ瞳でにっこり微笑んだポートレート。

好きなようにどこの世界にも分け入っていけるよそ者の特権で、じゃんじゃん撮ったらいいのだ。

当事者であるインドに暮らすインド人同士がなかなかできないことを、外国人ならできるのだから。

若いころずっともやもやしていた霧が、スッと晴れた。

三井さんがグッと寄ってビシバシ撮っていく迫力あるポートレートは、偽りない市井の人の記録でもあり、三井さんにしか撮れないものだ。

未知との遭遇、なう

このブログの以前の記事「撮って撮られて」でも書いたが、カメラ付き携帯の普及によって、いまは自分が写真に撮られる機会がさらに増えた。

今回のツアーでもたくさんのインドの人の自撮り写真に写り込んだ。村でも町でも、それは確かに、お互いに「未知との遭遇、なう」に違いなく、その高揚感がきっと写真にも表れているはず。

一応は日本人らしいおかしな中年女性が入ったセルフィーが、遠くインドの誰かの携帯に入っていると思うと、なんだか笑顔がこみ上げてくる。今は瞬時にネットでなんでも検索できる時代だけれど、こんな思いは、その場に行かなくては絶対に味わえない。

これがちょっとしたきっかけとなって、「別の世界」だと思っていた世界に飛び出して行くような、そんな若者が、いつか登場してくれたらいいな。

そうやって人が流動していくことでしか、世界は平和に向かって動き出せないと思う。

こんな気持ち、初めてなの

観光地ではない村や町の訪問を終えて、バナーラスの旧市街に戻り、観光の目玉中の目玉である夜の祈祷を見学した。その模様はひとつ前の記事「バナーラス再訪」に書いた。

巡礼者や観光客でごった返す桟敷で、隣にいた赤ちゃん連れの、高校生みたいな若い夫婦の奥さんが、英語で尋ねてきた。

「インドは初めて?」

言下に「Yes」と答えた。

本当は35回目だし、下手したら奥さんが生まれる前からインドに来ていたけれど、そんな野暮なこと、どうしていえよう。

「インドをどう思う? どう感じた?」

「とても綺麗で、人が温かくて、歴史が深くて、大好き」

まるで初恋の憧れの男子について話すように、うっとりしながらそう答えた。

こんなすれっからしの不良子持ち中年でも、思わずそういいたくなってしまう瞬間がある。そういう国だ、インドは。

若奥様は満足げににっこり微笑んで飴をくれた。

赤ちゃんがお供え用のお花の花びらをブワっと私に向かって投げて、お父さんが慌てて「Sorry」と謝った。

3人とも、とてもいい笑顔だった。きっと三井さんならバシっと最高の一枚をキメてくれたはず。

光源などの諸条件が悪く、それを補う技術がない私は、撮れなかった。

それでいい、と不思議と思えた。