認められたいという厄介な欲求

まったく記憶にないのだけれど、写真は2001年ごろのラオス。ビエンチャンかルアンパバンか、あるいは移動中の中間地点か。街道沿いの茶屋みたいなところです。

写真はまったく素人で子どもは苦手なのに、旅をしていたころはよく子どもを撮っていました。人に警戒心を起こさせない風貌という自負はあります。それにしても、カメラを向けると「いい顔するなあ!」という顔を見せてくれるので、異国の知らない子どもを撮るのは楽しかったな。ご時世柄、いまはいろいろ気を使いますが。

すこし前のことです。住んでいる地域の子どもたちの合同発表会というものに行きました。さまざまな種類のダンスあり、一輪車の演技あり、休憩を挟んで3時間という長丁場にも関わらず、まったく飽きませんでした。

子どもの出演総数300人くらいでしょうか。1800人収容の立派なホールが保護者で満席! インド関連の芸能の興行の厳しさをあちこちで伝え聞いているので、1800人が埋まるの、わぁすごい! と単純に驚きましたよ(笑)

自分の子どもが出ているので見にいったのですが、これがまあ、うしろのほうでよく見えないまま終わった自分の子そっちのけで、続く知らない子どもたちの演技に目頭が熱くなることなること。

ダンスにしても、一輪車にしても、ちょっと不安そうに始めた子どもが「できた!」という顔をするときの、晴れやかな気分ときたら。ほんと、みんないい顔をする。もう、拍手喝釆ですよ。

みんな、こうやってたくさんの「できた!」を重ねて大人になってほしいと切に願いました。別に勉強じゃなくてもいいし、誰もが羨むなにかじゃなくてもよくて、自分が嬉しい気持ちになる「できた!」が大事、ほんと。

この1年ほど、こういう体験が極端にすくないまま大人になってしまったのかなという気の毒な大人と関わったような気がします。

子どものころはストレートに出ていた、人に認められたい、褒められたいという欲求が、大人になるとすぐにそれとはわからない歪んだ形で放たれて、周囲を攻撃する。自分の価値を高めるためだけに、人の上に立とうとする。

なにが根底にあるのか計り知れませんけども、人が認めないなら自分で認めるしかないですし、いまあるものを受け入れて自分で自分の活路を見出していかねばなりません。こういう過程を経ないで大人になった人ほど厄介で面倒なものはありませんや。

でね、こういう大人は、自分を認めてほしいというところで進化が止まっているから、中身がない。いうこともやることも誰かの受け売りを上手にできるようになるのが目標、つまり、そこで止まる。端的にいって、つまらない。

人と比べて、劣等感に苛まれて、あたしなんかあたしなんかとやるだけやって、そこで根性出して、いろいろクリアして突き抜けるか、誰かに依存し誰かをマウントし、やっとのことで危ういバランスを保つか。

現実とか現状とか、そういう動かしがたいものと向き合わずに逃げる人は、(私が嫌いな)キラキラ・フワフワ・エセ・スピリシュアルにハマるし、誰か強い存在を見つけるやいなや、その人に極端に依存していく。手抜きするんじゃねえ、向き合え、といっても、届きはしない。

ほんと、めんどくさーい。そういうめんどくさーいのは、遅くとも20代くらいまでにはクリアしたほうがいいと思うのよね、一生抜けられない「認められたいオバケ」になるから。ああこわい。