袖すり合うも多生の縁

一生かけてずっと見守る。強さも弱さも潔さもずるさも、かっこよさもかっこ悪さも、躍進も敗退も、取り巻く人々の変化も。

生々しい想いは昇華したし、細かいことはどんどん忘れても、大元の記憶は消せない。だから、そういう愛しかたがあってもいいなと思う今日このごろ。

「諦める」とか「吹っ切れる」とか、そういうベクトルの言葉ではなく、「昇華」が一番ふさわしい、そんな心境。こういう日もちゃんと来るんだよと、右往左往していたころの自分に教えてあげたい。

で。長年の友人に指摘されてふと気づいた。自分も誰かにそういうふうにずっと見守られていた。そういえば、困っているとさりげなく助けてくれるし、無茶な頼みごとを断られたことがない。

言われるまで全然気づかなかったけど、ずいぶん甘えてきたように思う。友よ気づいてくれてありがとう。そして、その誰かへ。ずっと見守ってくれて、ありがとう。

人を愛し、愛されることは、まちがいなく私の人生を豊かにしてくれています。神様ありがとう。

書いていてなんだかお尻がむずむずしてくるけど、たまには直球も悪くない。

A friend in need is a friend indeed.

人の縁とは、なんとありがたいことでしょう。

男とか女とかその中間とか、そんなことは些細なこと。

人と人との縁は、ときに途切れながらもきっとずっと続いていく。

本日の写真は、2002年ごろ、住んでいたアパート近く。ヒンドゥー教最大の聖地バナーラスの洗濯屋がいるガート(階段状の岸)。

15年経って、”Is yug ke yeh mahaanaam Ram Narayan Ram”と書いてあったことに気づく。意味はよく分からない。この偉大なる御方のあらせられる世、ラーム・ナラヤーン・ラーム? なんだろ。マントラかな?