シークレットなスーパースター

ようやく『Secret Superstar(2017)』を観ました。

インドでの公開は2017年10月、DVDは未発売で正規ルートではないのと、ひじょうに個人的な感想を持ったので、Masala Pressではなくこちらにひっそりと書くことにします。全然レビューではないのであしからず。

本作では、日本公開されたばかりの『ダンガル きっと、つよくなる』で長女ギーターを演じていたザーイラー・ワスィームが主演を演じていました。

『ダンガル』で大注目を浴びたあとの堂々の主演! ということでとても楽しみにしていた作品です。

全体的な感想としては、子役から大人になりつつある、俳優として難しい時期をよく捉えていて、ザーイラーがとても魅力的。女子応援的な社会派メッセージも強かったけれど、私にとっては、彼女を堪能するための作品でした。


本作で一番、刺さったのは「自分の意思・意志を持つこと」がどれだけ大きな意味を持つか、という部分です。

「私はこう思う」「私はこうしたい」

幸か不幸か、私は自分がやりたいと思ったことを制限されたり、止められたりすることなく大人になりました。

自業自得の悲惨な着地も含め、人生のさまざまな局面で、自分で自分の選択をしてきたし、そういう自分に、とても満足しています。

どんな境遇であれ、自分で選んできた結果は自信につながるし、誰かのせいでなにかができない恨みを持つことはありません。

でも、

「私はこう思う」「私はこうしたい」

これがない、あっても表に出さない(出せない)、まったく違うツイストの効いた形で表現する。そういう人が少なからず存在することを、けっこう最近知りました。

映画を観ても、人に会っても、旅をしても、その人の感想がない。または、本当はあっても、表に出てこない。あるいは、私には言わない。

なんとなく耳に優しい、どこかで誰かがいっていたような言葉がスルスルーっと流れて、でもよく考えると、その人自身の言葉はどこにもない。

なにかを決めなくてはいけないときは、そういう人は誰かのリピートをして、「みんなの意見を聞いて」、なんとなく、見栄えのいい結論に落ち着く。

そのいっぽう、「じつは……」という本音がオフラインで行き交っていたりする。そして見栄えのいい結論には実現性がなくて、いつのまにかフェイドアウトしていく。

ダブル、トリプルスタンダード。中身のないやりとり。

世の中いろいろなストレスがあると思うのだけど、私が一番、自分の心に負担だなと思うのは、「本音と建前の使い分けの多用をすること」です。

それがいいとか悪いとか、自分が正しくて相手が間違っているとか、そういうことを論じたいわけではなく。

ただただ、私には合わない。そこに時間とエネルギーを割きたくない。

だいたいです、羨ましいと思う部分が微塵もない人に対して優位に立つ必要はないし、自分を認めてほしい人には正面からそうアピールしますし、羨ましいなと思う人のことはまんま「羨ましい」といいます。

言葉尻やら態度やら、いちいちめんどくさい手順を踏んで、それとなく表現したりは、しない。というか、できない。

自分が居心地よくいるためには、ひとつずつ整理して身の回りから排除していかないといけなくて、そういう点で、私はときどきハリネズミ的に尖ることがあります。


『Secret Superstar』においては。

ギターを通じて自分の想いを音楽で表現することができるヒロインと、家族の世話をすることだけが生きる意味のようになっている母親が、一見、対比になっているように見えます。

しかして、絶対の権力者である父親および夫の庇護のもと生きていかざるを得ないという点において、このふたりの環境に大きな違いはなく、また、自分の意見を通すことなど考えもしないような母親が、その実、娘よりもずっと大胆な行動をとっていたりもします。

母と娘は、相互に大きく影響し合いながら、「私はこう思う」「私はこうしたい」を実現していきます。

日本でこの作品が公開されたら「インドは男尊女卑なのねえ、女性が抑圧されているのねえ」、そういう声が、絶対に出るでしょう。

でもね。

衣食住足りて、学ぶ機会も存分に与えられて、婚姻の自由、職業選択の自由がある、女性がはるかに自由に生きられる日本においても。

社会的な抑圧はインドとは比べものにならないくらい軽く、自分の意思・意志を表に出したとして、この作品に描かれているように、頭ごなしに「ダメ!」と封じられることは、そんなにないはずの現代日本においても。

「私はこう思う」「私はこうしたい」

大人になり、生まれ育ちや両親の影響から離れた一個の存在になっても、これが十分に実現できない人もいる。どう接したらいいのか、私にはわからないから、離れるしかない。

意思・意志を表明することで、誰かから浴びるかもしれない批判や非難や嫌悪を受け止められるかどうか。それだけの成熟ができているか。そういうことではないかとは思うのだけど、それをいうのはフェアじゃない気もする。

この作品に登場する家庭内の絶対的支配は日本にもおそらくあって、その影響下から抜け出せず、自分の意思・意志を持ちたくても、そういう環境にいない人もいるだろうから。

作品がもたらすカタルシスとはまったく別に、自分にはどうにもならないことが思い出され、いまいちスッキリとした気分になれない、そんな極私的な感想をもった次第です。

いやすごくいい話だし号泣したのですけれども。スーパースターはシークッレットでいてはいけないわ。

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