ふたたびの帝釈天

昨夜は寅さんで知られる柴又帝釈天のおまつりでインド古典舞踊を踊ってきました。

私が習っているインド古典舞踊の発祥は寺院付きの巫女の奉納舞なので、お寺で踊れるのは見習いとしてはとても嬉しく光栄なことです。

あいにくの雨で人出は少なく、ひっそりそびえ立つ門はまるでインドの寺院みたい(すぐこう思ってしまうのはインド脳なのでしかたない)。

インド古典舞踊では独特の化粧を顔に施しますが、師匠によりますと、これは吉祥メイクなのだそうです。

神様を楽しませるためのエンターテイメントというわけですね。私の乏しい力量ですと、楽しんでいただくというより神様大荒れしそうではありますが。

前日、昇級試験に大惨敗したものの、試験が終わった開放感からなのか、演芸場のようなアットホームな会場だったからか、われながらのびのび楽しいステージでした。

子どものころ、お盆やお正月に田舎の祖父母宅に従兄弟が14人勢揃いし、小学校校長だった祖父の仕切りでひとりずつ歌を歌ったりなにかしらの芸をしたのをふと思い出しました。田舎のやたらと広い畳の部屋の雰囲気が昨夜の会場となんとなく似ていました。

おりしもインドは光の祭り、ヒンドゥー教の新年デーパバリ(ディワーリ)の季節です。

性別関係なく、私には好きな人、尊敬する人がいて、好きの度合いが強くなりすぎて、ときに軸がぶれ、彼らに知らず知らずのうちに引っ張られてしまいます。それは突き進むことに熱中しすぎる自分の性格上、しかたがないことだと諦めるしかありません。

ただ、ぶれないでいるためには、離れないといけないこともあります。嫌いになったわけではなく、すこし離れたところにいないと、自分が自分でなくなってしまい、なにをどうしたらよいのか自分で考える力がなくなってしまいます。

いまは、あの人だったらなんというかな、ということを指針にしつつ、互いに多幸あれと祈るのみ。

インド新年、おめでとうございます。

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