成長し続けるということ

私が元いた外資系の証券会社では、毎年毎年、その年の自分の目標を掲げ、年の終わりに何パーセント達成できたかの査定があり、翌年の年俸と前年の賞与額が決まった。

あるとき、部全体の目標的なものを決める会議で意見を求められ、答えた。

新たな目標目標と毎年言われ、常に成長し続けることを求められるけれど、本当にそれは必要なのか? いまある資源を有効に活かし現状維持をしていくことも重要なのではないか? 常に成長をしなければならないということは常に競争していくということであり、それはいったい誰のための幸福なのか?

現在は状況も変わっているが、当時の外資系証券会社というのは、数字第一、日系の筋のよい証券会社がやらないハイリスクハイリターン商品をガンガン売ってガンガン稼ぐのが正義、という時代だったので、そんなことを大勢の前で発言するのははっきり言ってただのバカである。

案の定、満場の失笑を買った。

そんななか、40年以上前に発刊された『成長の限界』という地球規模の経済についての研究書を例に、私の意見に理解を示してくれた人がひとりだけいた。

いわく、地球の資源は限られている、それに対し人口はどんどん増え続ける、環境汚染と資源の枯渇により100年後には地球上のすべての成長は限界に達する、というもの。要するにマッドマックス的な世界の話。

その本を途中まで読んだけれど、難しくて投げた(このへんが私がすごくバカなところ笑)

しかし実際のところ、リスクをとり攻め続けるということは、そのぶん綻びも出やすいということで、退職するころの傾向としてはより安定するもの、質がよく長期的な継続性のあるもの、という方向に代わり、ハイリスク方面の部門は縮小していった。

という話はさておき。

2年前、娘が小学2年生に進級する際、区からの補助で特設されている学校の音楽活動に参加したいと言われた。

朝練あり、土曜練あり、行事もたくさんあり、親のサポート必至の活動である。

休みもへったくれもなく親のサポート5億パーセントで成り立っているような野球やサッカーをやらせている親御さんにはほんとうに尊敬の念しかないが、私は子どもなんてできれば勝手に育ってくれないかしらと思っているけっこうヒドイ親なので、そんな音楽活動への参加はメンドクサイ以外の何物でもなかった。

母は夜中に仕事をしたりゆっくり映画を観たりしたいので、朝は起きられないこともある。そんなとき自分で朝の支度をして朝練に間違いなく参加できること、万が一寝坊して朝練に行けなくても母に文句を言わないこと。

そんなことを条件に出したら、なんと娘はすべてのみ、それでも参加したいと言い張った。誰に似たのか知らないがたいへんな頑固者である。

娘の担当楽器は、自分の身体の半分以上もある大きな楽器に決まった。私も中学時代に同じ部活で似たような楽器をやっていたので分かるが、とても体力のいる楽器である。か細い7歳女児が果たして音を出せるものなのかはなはだ疑問だったし、気の弱い娘はどうせすぐ泣き言を言ってやめたいとかなんとか言い出すと思っていた。

しかし娘は、雨の日も雪の日も、母がベッドから起き上がれなくても、毎朝6時に起き、自分で身支度をして、そのへんのなにかを食べて、朝練に参加し続けた。

ママがしっかりしてるのね素晴らしいわね、と褒められたりするが、ママはベッドやソファでぐったりしながら「パンを焼いて食べていけ」とか「忘れ物をするな」とか遠隔操作しているだけであり、毎度たいへんバツが悪い。

半信半疑で観に行った初めての演奏会では、大きな楽器に隠れて娘の顔は見えず、ただ指だけが動いているのが見えた。

1年が過ぎたあるとき、一緒にカラオケに行って、かつてボイストレーニングで鍛えそこそこの声量があるはずの私に対して、マイクなしで張り合って歌う娘の肺活量に度肝を抜かれた。

音楽や踊りについては、私は本物が好きだし、生きているうちにできるだけたくさんの世界レベルのものを見たいと思っている。我が子がかわいいというだけの気の抜けたお遊戯にはほんとうに興味がない(ほんとヒドイ親だ)。

だからそれまでも、気合を入れて演奏を鑑賞していなかった。

その年の最後の演奏会では、娘の顔は相変わらず楽器に隠れて見えなかったが、彼女が出す音がきちんとハーモニーを奏でていることに気づいた。知らない間に何曲もの演奏をこなしていた。

そんな娘の音楽活動も2年経ち、年度末の演奏会が先週あった。

驚いたことに、3年生にして、娘にはソロのパートがあった。

聞いていなかったのでびっくりした。指揮を務める講師がひとりひとりのソロパートが分かるように示してくれなかったらおそらく気づかなかった。

公立学校のクラブ活動指導の先生は、時間外の手当てが出るわけでもなく、完全ボランディアと聞いている。普段はそんな担当の先生とスクールコーディネーターの方が、朝に夕に大変熱心に指導してくださっている。

この1年は土曜練の指導はベテランの外部講師に来ていただき、30数名の児童に対し3人の指導者がつくという至れり尽くせりの体制だった。すべて区から出ている予算で、家庭の金銭的負担はない。税金を鬼のようにたくさん納めてきてほんとよかった。

演奏中の子どもたちの真剣な顔、練習の合間に先生にまとわりつく無邪気さを見ていると、指導者と子どもたちの間になみなみならぬ信頼関係があることがわかる。厳しいなかにもいつも温かさがあり、敬服するばかり。

娘は保育園時代からほんとうに先生に恵まれてきて、おかげで親の私は、保育園や学校関係のことで頭を悩ませるという世間一般によく聞く苦労は一切しないでこられた。

演奏会では写真担当だったので、ずっとカメラで子どもたちを撮影していたのだが、気づいたら涙がぼろぼろ出ていた。マスクで隠しながら、せっせと撮影した。

いつのまにか娘は楽器から顔が半分くらいは見えるようになっていたし、ソロパートは堂々の演奏ぶりだったし、すっかり見慣れたほかの子どもたちもそれぞれに成長があって、全員がかわいくてしかたなかった。そして一年前よりも明らかに音に厚みが出て、キレがよくなっていた。

外部講師はご自身も演奏家の方で、演奏会の中盤に素晴らしい演奏を聴かせてくださった。プロの大人が出す音に子どもたちは熱心に聴き入っていた。このなかからどのくらいの子どもが将来音楽の道に進むのかわからないが、こんなに身近に正真正銘の本物を聴く機会に恵まれたことはほんとうに幸せなことだ。

昨日は区が力を入れているオリンピック・パラリンピック関係のイベントでの演奏があり、それが今年度最後の演奏だった。

指揮が会場の手拍子を促すタイミングだったこともあり、ソロパートで、顔の上半分だけかろうじて見えている状態で、娘は目線を私のほうに向けた。

うんうん、しっかりできてるよ、そんなアイコンタクトを返した。

指揮の先生が子どもたちを見つめるまなざしが優しかった。ほんとうに、よい指導者に恵まれて、ありがたいことです。

どうだ、ここまでできるようになったぞ。

娘はそんなことを言いたげな目をしていた。きっと楽器の陰で最高のドヤ顔をしていたに違いない。

いろいろと頓狂な親でごめん。母はあなたと、あなたの成長がとても誇らしい。